忍者の真実に近づく可能性しか感じない「第2回国際忍者学会大会」

佐賀県嬉野市にて行われた第2回となる国際忍者学会大会。

今回のテーマは「幕末の忍者」です。

温泉街の情緒漂う嬉野はあいにくの雨模様でしたが、忍者業界の研究者や関係者約100名が続々と集まってきます。

会場内に入ると、来賓者席に何者かが座っていて二度見してしまったのですが・・・

忍者学会なのに甲冑戦士がいる…!

この甲冑兄さんは知事の代理でお越しいただいた佐賀県庁の職員(つまりリアルに佐賀藩士!)の円城寺さん。

忍者の学会に武将が来賓で来てくださるなんて、忍者も上流階級から注目されてきましたね!

そして国際忍者学会の会長で数多くの忍術書の翻刻・現代語訳を執筆してきた中島篤巳先生のご挨拶を皮切りに、大会がスタートいたしました。

片付忍者の安蔵さんが早すぎて肉眼では追いつかないの図

基調講演「佐賀藩における忍者」(深川直也)

1番バッターは「佐賀藩における忍者」と題して、近年見つかった佐賀地域の忍者について基調講演をしていただいた深川直也先生。

深川先生は8年前に有志で立ち上げた佐賀戦国研究会の代表で、勉強会や歴史シンポジウムを定期的に開催されていらっしゃいます。

先日の嬉野における3名の忍者を発見された功績を持つ、今や佐賀が誇る忍者研究家でといっても過言ではないでしょう。

今回の発表では、佐賀藩においてどのような忍者がいたのかを丁寧に解説してくださいました。 要旨は以下のとおりです。

【佐賀・嬉野の歴史】
・戦国時代より前は今川氏、千葉氏が佐賀一帯を治めていたことがある。
・戦国時代は龍造寺家。江戸時代は鍋島家が治める。
・嬉野は戦国期の東肥前と西肥前のちょうど国境にあり、戦における重要な位置であった。
【忍者を使った武将たち】
・戦国時代の龍造寺隆信の家臣「空閑光家」が多くの忍者を配下に抱えており、盗み乱暴を許すかわりに無給で召し使っていた。そしてその忍びたちが敵城攻めに参加して、大将を生け捕るなどの活躍をした。
・鍋島家の次男「鍋島直茂」は、大友家に奇襲して本陣を壊滅させた。この際、山伏たちに協力を得て、闇夜の山中をばれずに移動して奇襲に成功している。佐賀では山伏を忍者のように使っていたようである。
【認定された佐賀忍者たち】
「弁慶夢想」は、江戸時代に入ってから嬉野に滞在し、山伏を修行しながらタイ捨流を修めた。体得したタイ捨流の門外秘文書に「忍法」の文字が見受けられ、「犬隠れの術」など九州においての忍法の有様が垣間見える。
・佐賀藩の支藩である蓮池藩に仕えた「田原安右衛門良重」は、”細作”として活動していた。
・幕末期の蓮池藩武士「古賀源太夫」は、外国船が長崎に来航した際に2度情報探索を行った。古賀源太夫が担った「聞合」「聞合方御用」という役目は、幕末において忍者が担った諜報活動を指すのではないか。

佐賀・嬉野の歴史からそれぞれの時代に活躍した忍者やそれを使った武将達をご説明いただきました。

深川先生がおっしゃるには、今回忍者という視点で郷土資料上を調査したことによって、これまで見過ごされてきた忍者情報が多く発見されただけでなく、新資料の発見や文化財の再発見にも繋がったとのこと。

官・学・民の連携によって忍者を探していくことは、郷土史研究に新たな可能性をもたらすことがわかったそうです。

忍者は各地域の魅力を最大限に発揮してくれる地域にとっては力強い味方であることが証明されたような気がしました。

「弘前藩 -藩の命運忍びに託す-」(清川繁人)

今大会のテーマである「幕末の忍者」に沿って研究発表される方が2名。

続いては青森大学薬学部の教授であられる清川繁人先生による「弘前藩 -藩の命運忍びに託す-」の発表です。

清川先生は理系専門でありながらも、青森での忍者研究を精力的に進めていらっしゃいます。

青森大学では、全国で初の「忍者部」を創設してその顧問を務めるなど、今青森の忍者熱は高まるところまで高まっているようです。

【津軽為信と忍者】
・戦国時代までは南部氏が支配。その後南部一族に養子となった大浦(津軽)為信が南部家から独立。
・秀吉からは独立を認められなかったが、石田三成の取次で大名として認められ、恩義を感じる。
・津軽為信は勢力拡大にあたって多くの忍びを登用。中には服部長門など伊賀者と思われる者も。
・南部からの領地侵攻に対して津軽領の国境に警備を固めた。その際に召し抱えたのが胸形(むなかた)氏で、彼は山伏に国境を監視させた。
【早道之者】
・石田三成の子孫である杉山氏が、シャクシャインの戦いで待つ前藩とアイヌの双方で諜報活動を行っていた。
・シャクシャインの戦い後、甲賀者の中川小隼人が召し抱えられ、諜報部隊として「早道之者」が結成される。
・中川小隼人の忍術は、胸形氏の流れを汲む棟方家に継承され、早道之者支配者となった棟方家の者がいる。
・青森に江戸時代の後期築と思われる忍者屋敷がある。人が入れる隠し空間や見張り用の隙間などが見られる。
・明治2年の古地図でその屋敷があった場所を見ると、棟方氏が所有する屋敷であった。
【忍術書の考察】
・弘前市立図書館で忍術書「忍之巻」を発見。武具や薬方、忍びの心得などが書いてある。
・後世に忍術を伝えるために棟方家で伝承され、寄贈されたものと推察する。

東北の忍者として名前だけは聞いたことのあるけど良く知らない「早道之者」について、これだけの情報に触れたことは今までありませんでした。

それに石田三成の子孫との関係なども、大変興味深いです。

前述の深川先生の講演と照らすと、「山伏が忍者的な活動をしていたこと」「忍者がいたのが国境付近であること」など、いくつか共通点が見られそうな気がしました。

伊賀や甲賀も半手や半納と呼ばれる国境付近にいた存在でしたし、このように各地での忍者に関する研究が進むことで、より全国的な忍者の本質に近づいていけるのではないかと、少しワクワクしてしまいます。

忍術書や忍者屋敷など、次々と忍者関連の史料や史跡が見つかっている青森の忍者。

今後の発見や更なる深掘りの研究が大変楽しみでなりません。

「忍者マンガにおける幕末期の位置づけ課題」(橋本博)

「幕末の忍者」のテーマ研究発表の2件目は「忍者マンガにおける幕末期の位置付けと課題ー新感覚忍者マンガ「シノビノ」の実験的試み-」。

発表されるのは、熊本にある合志マンガミュージアム館長・橋本博さん。

過去からの忍者マンガにおける傾向を分析され、幕末における忍者の可能性を報告されました。

【忍者マンガの歴史】
・1920年代は「忍術」マンガ。戦後昭和20年代まではダークで妖術使いのようなイメージで描かれることが多かった。
・1960年代に「忍者」という言葉がよく使われるようになる。一番大きな影響を与えたのは白土三平の「忍者武芸帳」「サスケ」「カムイ伝」など。それまでは忍術=ひとつのテクニックであったが、忍者という階級のイデオロギーの強い作品になっていった。高度経済成長の光と影におけるを表現したもの。
・影ばかりの中で光を描いたのが横山光輝の「伊賀の影丸」。山田風太郎に影響を受けていると思われる。忍法マンガと定義してよいだろう。
・1970年代以降はギャグの対象になっていく。ドロンチビマルやさすがの猿飛など。
【幕末忍者マンガの難しさ】
・忍者マンガは圧倒的に戦国時代、あるいは江戸時代が多い。幕末の忍者マンガは数えるほどしかない。「幕末御庭番シリーズ」や「るろうに剣心」など。
・マンガに不可欠な3つの要素はキャラクター・ストーリー・ビジュアル。この3点がうまく組み合わさることだが、幕末での忍者というキャラクターでは面白い作品は作れないとされてきた。
【シノビノの画期的な取り組み】
・そんな中、画期的な幕末の忍者マンガとして連載しているのが「シノビノ」。歴史マンガにおいて架空の人物を披露するのはリスクが高い。そこで見つけ出したのが「沢村甚三郎」
・この作品のウリは、いかに忍者漫画としておもしろい作品にできるかという仕掛けが作ってある所。これは1960年代にブレイクした「サスケ」に見られる忍術のやり方をいかにもそれらしく解説するという要素を取り入れている。忍者をリアルの姿にして、等身大の姿にするという試みはある種の先祖回帰であろう。
・タイトルをカタカナにしたのがユニーク。今までの忍者マンガは大体漢字であったが、新鮮なイメージを与える。
・幕末の英雄たちもたくさん出てくるのが面白い。ただし、あくまで実験的作品であると考えている。もうすぐ連載は修了するはずだが、ラストシーンをどう持っていくかに注目したい。

シノビノについてはNinjackでも一度ご紹介させていただいておりましたが、その通り幕末に舞台を持っていったことが大変斬新だと思っていました。

NARUTOや忍たまなど、最近の人気のある忍者マンガには伊賀や甲賀という実在の地名があまり出てこないので、シノビノには伊賀忍者の名誉を託していたのですが、6巻で終了なのは非常に残念です…

ちなみに熊本にある合志マンガミュージアムには、忍者マンガコーナーが展示されているようなので、お近くの方はぜひとも行ってみて下さい!

「忍者と黒装束の融合」(稲本紀佳)

テーマを問わない忍者に関する研究を発表できる「自由発表」。

続いての登壇者は、大阪大学の大学院生・稲本紀佳さんの「忍者と黒装束の融合 -近世演劇を手がかりに-」でした。

稲本さんは三重大学の忍者・忍術学コースができる前から、山田雄司先生の研究室で忍者に関する研究をされていて、今は博士前期課程で忍者と歌舞伎についての研究をされているのだそうです。

今回は忍者といえば黒装束というのがいつから定着したのかについて発表くださいました。

【歌舞伎のなかの黒装束】
・歌舞伎における黒装束の初出は「伊勢街道銭掛松」。そのほかの作品にて悪人に付き従う、宝を盗む、暗殺、偵察する者が黒装束を着用している。
・黄表紙では、盗賊のような役割を担う忍びの者や、盗賊を表す者が着用している。
・黄表紙は主に歌舞伎の影響を受けて作られているので、ここからは歌舞伎の用例から黒装束と忍びの関係を探っていきたい。
【忍者の黒装束イメージの源流】
・飛び加藤が登場する「伽婢子」や「新可笑記」「当世信玄記」などの18世紀前半ごろまでの忍者は黒装束を着用していない。
・宝暦11年にはすでに忍者と黒装束が結びついているが、定型化したとまではいえない。安永ごろには忍者の姿として黒装束などと指定がある例が続いた。
・黒装束が忍者の衣装として定型化していく課程がみられるのは宝暦・明和年間ごろであり、定着したのは安永ごろ。
【黒装束は何に由来するか?】
・ト書きには「忍びの者」と書いてあるが、その忍びの者とは①役がある忍びの者と、②役のない黒子的な忍びの者の2つの概念が含まれていた。
・本来は黒装束でなかった①役持ちの忍びの者が、同じ言葉で表された②役のない黒子的な忍びの者の影響を受けて、黒装束を着るキャラクターになったのではないか。
・もしそうであれば忍者の黒装束のイメージの源流は演劇にあり、そこから他に派生していったといえる。

忍者といえば黒装束ですが、このイメージの元ネタはあの演劇で裏方やる「黒子」から来ていたとのこと。

大変ロジカルでテンポもよく、もう納得するしかありませんでした。

こういう問題について、このように定義してこのようにアプローチした結果、こういうことが言えますと、論旨がすごく明快で、一番学会っぽい発表だったと思います。

しかも時間ピッタリ!

現代の忍者のイメージの原点がどこから来たのかだけでなく、発表の仕方など大変勉強になりました!

「海外テーブルロールプレイングゲームにみる忍者受容」(吉丸雄哉)

そして自由発表で最後に登壇されたのは、三重大学准教授の吉丸雄哉先生。

忍者のイメージや文学研究といえば吉丸先生ですが、今回は海外における忍者のイメージの変遷をテーブルトークロールプレイングゲームの観点から紐解きます。

【TRPGから忍者を見出す意義】
・TRPGは電子機器をつかわずに遊ぶロールプレイングゲーム。西洋ファンタジー世界が多い。ルール設定が細かい。
・東洋、日本をテーマにしたTRPGが商品化されるということは、製作者が忍者に対して強い関心があるからであり、一定の販売が見込まれる=ユーザーもそれに関心があるということの裏返し。
・TRPGには参考作品などが記載されており、RPGの世界設定やルールは何を参考に作っているのかが、忍者のどう見ているかがわかる。
【アメリカにおける忍者ブーム】
・1970年台は「007」の映画や「ショーグン」の小説などがアメリカの忍者受容に非常に大きな影響を与えている。日本ブームにのったがまだ時期尚早であり、そこまで流行らなかった。
・1985年まではアメリカNBCの「将軍SHOGUN」や「燃えよNINJA」で忍者ブームが到来。
・その後反日感情なども相まって1991年には忍者ブームが終了。ゲーム的な感情も落ち着いてくる。
【TRPGは何から影響を受けているか】
・「Land of Ninja」などのTRPGにおける忍者は、手裏剣などの特殊な武器を使っている。変装や身を隠すなど、ある程度現実的な忍術を使っている設定である。
・忍術の設定などを見ると、ゲーム制作の参考文献として使った本自体が奥瀬平七郎さんの忍者研究内容に影響を受けていることがわかる。武神館の初見氏に影響を受けたものもあり、ゲームの中でも武術要素の割合は多い。
・ちなみに1991年に発売されたTRPG「Nippon Tech」は「ニンジャスレイヤー」と世界観を先取りしている。

「TRPGなんてマニアックで知らないよ!」という方も多いと思いますが、逆にマニアックな世界だからこそ商品化するには一定のニーズがないと開発できないというもの。

そのゲームを作ろうというからには、根底となる忍者人気がないといけないので、その逆説的観点から忍者のイメージが海外でどのように受け入れられていたのかというアプローチは、凡人には思いつかないな…と心から感心してしまいました。

奥瀬さんの忍者概念が影響を与えていたということなので、果たしてなぜ奥瀬さんの忍者の研究成果は海を渡っていったのか、なども突き詰めてみたくなりますね!

そしてあの剣源蔵が1日限りの復活!

そしてなんと、肥前夢街道で長年頭目を務めて今年4月に引退した剣源蔵さんが、学会の応援に来てくださいました!

剣が抜かれる学会なんて、世界中どこを見渡しても国際忍者学会くらいなのではないでしょうか(笑)

そして主催の九州忍者保存協会の理事であり、肥前夢街道の専務を務める河野さんが最後の締めの挨拶を務めました。

時代村を忍者村として立て直し、嬉野を忍者で盛り上げながら「本物がないとダメだ」と気づいて地元の忍者の歴史を調査し始めた河野さん。

その後奇跡的に田原安右衛門という忍者が見つかり、継続的に調査を続けて3人の忍者まで見つけてしまう推進力は、本当に尊敬に値します。

数年前は本当に何もなかったところから、挙句の果てには国際的な学会まで招聘してしまうのですから…!

今後の嬉野の仕掛けには注目をせざるを得ませんね!

学会によって明るい忍者の展望が垣間見えた

国際忍者学会の設立総会・大会から若干半年しか経過しておりませんが、この2回目の大会で、今後の忍者研究に非常に明るい可能性を感じました。
それは研究者同士の交流による相乗効果によって、各人の忍者研究の深化が期待できること。

記事では省略しましたが、各自の発表の後に会員や役員から質問が出たり、その後の懇親会で発表内容について議論したりと、発表者では気づかなかった点や聴講者が知らなかった点などが補完されていく光景を目にしました。

ある人の研究成果から導き出される真実が、自分の研究の更なる深化を手伝っているわけなのです。

今回の学会では問いの立て方・論理の構成・調査の方法・発表の仕方・単純な知識など、非常に勉強になりました。

このような学会があったからこそ生まれる相乗効果であり、今回の大会を通じて「学会というものはとても有意義なものである」と強く感じました。

忍者の世界はまだまだ先行研究が少なく、更に今回の発表のレパートリーの広さでもわかるように、多様な観点から研究ができるとてもいい題材。
忍者というのはとても不思議な存在で、人によって定義もイメージも違うので、これから会員が増えてあらゆる角度からの忍者の検証が期待できると思っています。

まだその研究者の数は決して多くはないですが、この国際忍者学会が会を重ねるごとに、忍者という謎に包まれた存在が少しずつ明らかになっていく可能性しか感じませんでした。

8月には国際忍者学会の機関紙「忍者研究」も発刊され、そこに寄稿されている「福井藩の忍者に関する基礎的研究」(長野栄俊)や「伊賀者・甲賀者考」(藤田達生)も、学会会員になって読んでいただければ大変勉強になると思います。

そして学会で無料で配布されたギャンビット社の「そろそろ本当の忍者の話をしよう」には、佐賀藩の忍者と青森の忍者について詳しく解説されていますので、学会に行けなかった方はこちらを購入してみてください。

上述した学会の効能は他の学会でも普通のことかもしれませんが、忍者学会ならではの良いことがもう1つ。

その良いことは、翌日に行われた巡検のレポートで書きたいと思います。

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