幼少の頃から祖母や父より家伝の躰術を指南され、その後ご自身でも蟷螂拳、太極拳、八卦掌、棒術、空手、躰術、柔術、手裏剣術などを修行されている武術の求道者でいらっしゃる伊与久松凬先生。
現在は信州と関東を行き来しながら、伝統躰術の普及と発展に力を注ぐだけでなく、真田忍軍として尽力した祖先に誇りを持ち、武田・真田に使えた忍びの末裔の方や残された伝承を発掘するSHINOBI – ZM活動も精力的に行なっています。
そんな伊与久先生に、これまでの半生や忍びの末裔としての活動、今度の目標などをお伺いしました!
すべての忍者をJackするNinjack.jpがお送りする特別インタビュー企画、ぜひともお楽しみください。
吾妻の祖母に指導を受けた幼少時代
やっとこの機会を得られました!どうぞよろしくお願いいたします!伊与久さんはおばあさまから多くを受け継いだと伺いましたが、どのようなことを受け継がれたのでしょうか。
伊与久: 私が祖母から受け継いだものはあまり多くありません。祖母は武芸十八般に精通し、歌舞音曲を善くしておりましたが、それを体系立てて私に伝えるということはいたしませんでした。また、小さい頃習ったのも時間をとった稽古というよりは、遊びの中で教わったり、生活のヒトコマであったりしましたので、そのままみなさまに伝えられるものではありません。今でこそ自身でも数々の流派を学んでからわかるものの、最初は祖母が残してくれたものが武術、ましてや忍者の伝統から来ているものだとは思いもしませんでした。
例えばどんな遊びをしてくれたのでしょうか?
伊与久: 例えばこのようにコップをを頭に乗せて動かないように歩くなど、遊んでいる感覚で「体に規矩(きく)を作るんだ」と言ってやらされました。これだって、ずーっと「菊の花をどうするんだって?」とか思っていたくらいです(笑)他にも昼寝をしているときに布団叩きで「ほれっ!」と叩かれるのを避けるとかですね。これは先ほど稽古会でもやった「体転」の稽古になっているんですね。
すごい!回ったりしゃがんだりされているのに全くペットボトルが落ちないし、中の水すら動かない…!
伊与久: 武術的な動きだけでなく、日々の基本動作や所作についても細かく指導されました。玄関に入って靴を脱いであがるとき、靴を揃えておきますよね。なぜだと思いますか?
え…帰る時履きやすいようにでしょうか…
伊与久: そうなのです。ただ、祖母はそれを「逃げやすいように」と言っていました。なので一番すぐに履きやすい角度まで、細かく指南されましたね。食事のときもそうで、箸でもフォークでもいいのですが、何かあったら一番投げやすい場所に配置するように教わりました。食器の位置もいちいち指導が入るんですよね。祖母はこうやって箸を手裏剣に投げてお姉さんの手の甲を貫いたことがあったとか・・・(笑)家族がみんな武道をやっていたので、家の中では自然とそのような話が多かったですね。
体に染み付いた忍びの習性のようなものが確実に見えますね!おばあさまはどうしてそのようなことが身についていらしたのでしょう?
伊与久: 祖母は地元の親戚や、当時「法印さん」と呼ばれた行者たちから可愛がられて、いろいろと仕込まれたみたいです。5人姉妹の末っ子で、姉妹はみんなそれなりに稽古もしたようのですが、祖母が一番筋がよかったと聞いています。剣術、柔術、杖術、長刀、水術(泳法)、弓術、馬術、手裏剣を修め、特に手裏剣、長刀、泳法は相当な腕でした。そうかと思えば和洋の楽や舞踊、礼儀作法、書、お茶にお花・・・とそれぞれに師範の免状を持っていました。とにかくなんでもできる万能の天才のような祖母でした。
伊与久家のネットワークと流れ
やはり昔は吾妻地域に住んでいると、みんながみんなそのような術を仕込まれるのでしょうか?
伊与久: 他の家はわかりませんが、おそらく特殊な限られた家系のみだと思います。今はもう知る人もいませんが、昔の当家には本家分家の間で、緊密な連絡があり、吾妻以外にも、伊勢崎、安中、中之条、沼田、月夜野、水上など頻繁に交流をしていたようです。伊能とか伊輿久とか五十久とか、少しずつ書き方は変わっていますがみんな同族ですね。また親戚筋や、「五家」と言って仕えていた郎党の家もあったようです。そんなネットワークの中で、祖母も他の家の人間に技を頂いたこともあったようです。
なるほど、忍びの家特有なのですね。伊与久家の家系について簡単に教えていただけますか?
伊与久: 吾妻と安中にいる伊与久家は、もとは吾妻衆の中核で活躍した家柄だったといいますが、そのなかでも伊能采女から興っています。私の家系はその家が分かれて安中に来ている流れです。更に遡ると、五十久弾正という鎌倉時代に活躍した人物がおり、そこを中心として群馬一帯の伊与久家は広がっていったようです。
吾妻七騎の中には伊能左京もいらっしゃいましたよね?またあの方とは別なのでしょうか?
伊与久: 左京の家筋も元を正せば伊勢崎の五十久弾正に行き着くと思われます。吾妻衆としては采女の少し後に入られた方なので、先に入っていた采女との血縁関係もあり、知行を得たのではないでしょうか。
蟷螂拳から内家拳を経て、祖母の教えに気づく
幼少期に武術の動きをおばあさまに習ったことで、武術の道を極めようと思われたのでしょうか?
伊与久: いえ、実はそういうわけではないのです。祖母から習ったことは武道という認識はあまりなく、ほとんど遊びとかしつけの領域だと思っていたので、むしろ軽視していたというか・・・だって嫌じゃないですか?小学校から帰宅すると祖母が手裏剣握って「兄ちゃんおかえり〜」とか(笑)。
更に我が家が先の敗戦でボロボロになってしまったという経緯もありまして、日本の武道と聞くとどうも後ろ向きな捉え方をしてしまっていたんです。閉鎖的で暗く過酷・・・というマイナスイメージや、戦後の教育の中での日本否定などが染み付いてしまっていたんですね。自分はもっと武をロマンを持って明るくやっていきたい。なのでジャッキーチェンが大好きでした。なんか明るく楽しげにに武と付き合っているみたいじゃないですか。それで中国武術に見事にハマり込んでしまったというわけです。まぁ蓋を開けてみれば、結局選ぶのは武だったわけで、そこは自分でも笑っちゃうんですけどね。
手裏剣握ってお帰り〜って凄く憧れますけどねぇ(笑)確かにジャッキーチェンの武術は華やかで夢中になりました!
伊与久: とにかく一気呵成に勝負をつけるような、カッコ良くて身体を目一杯使えるような武術をやりたかったんですね。それで家で習っていたことは無茶苦茶おろそかにしてました。まず親父から空手を習っていたんですが、なんかジャッキーと違うなと(笑)そして高校生になって中国武術を学び始めたんです。その時は人生をその道に捧げようと思うくらい入れ込みましたね。稽古も結構な無茶をして、1日10時間稽古したりとかなり狂っていたと思います。その頃の友人に言わせると目つきもちょっとヤバかったようです(笑)
その頃に、とある拳法の有名な先生と手合わせをすることになりました。自分では大会などでも好成績を残したりしていたので、「敵わないまでも傷くらいは残してやる!」と必死の覚悟で挑んだのですが・・・瞬殺されたんです。実力が違いすぎて、怪我すらしませんでしたね。もうそれがすごいショックで、動作が素早かったり、コンビネーションやフットワークが巧みだったりしても、「ここ」というところを抑えられたらもう動けない。結局その抑えるべきモノは何なのだろう、と考え出すようになりました。
祖母にも相談したら「山に行ってこい」と促されたりもしました。祖母の師匠筋の行者さんがおりまして、その方の指示で山にある古い墓場の中で寝たり、断食したり、滝に打たれたり・・・技の奥には精神性が重要なのではないかという仮説で、縁を辿って日本や中国の名人を訪ね歩きました。きっとなんらかの理法があるはずだと。そうこうしている内に中国武術の中でも、八卦掌などの内家拳(太極拳・形意拳・八卦掌等柔を善く剛を制する武術)の世界に出会います。上海に飛び、先生に師事しながら稽古を続けた結果、40歳になってやっとその理法が少しづつですが・・・わかるようになったのです。それは結局「体捌き」だったのですけどね。
体の動かし方…おばあさまが実は教えてくれていたことですね…!それにしても中国で師事を受けていた八卦掌が気になります!
伊与久: 八卦掌は董海川(とうかいせん)という人が編み出した比較的新しい武術なのですが、その流れである姜氏門の八卦掌の流派に師事しました。勿体無いことに私は創始者から数えて5代目です。私の兄弟弟子で5代目になる人はほとんど他界しているか、今は70歳くらいの方ばかりで、今は6代〜7代の世代なんですね。先生は今90歳くらいのおばあさんで私は最年少の弟子です。最終的には印可をいただき、八卦掌などを日本で普及することのお許しを頂き今に至ります。
先生は古い武術界を知る方ですから、それ故にとっても厳しい人でした。しかし、私がずっと祖母と生活をしていたおかげで、非常にウマが合って可愛がっていただいたんです。兄弟弟子からも「本当の親子みたいだ」と言われるくらい。祖母が伝統的なモノの見方を小さい頃からずっと仕込んでくれていたのが、私の中に染み付いていて、それが先生ともうまく打ち解けられた要因だったのではないかと思うのです。
祖母はずっと言っていました。「大事なのは誠なんだよ」と。人間関係において大切なのは、相手を利用する、ということではありません。人がその気になって動いてもらう為には、自分がこの人のために本当になんでもできると思えるか、それを信じてもらえるかどうかなんですよね。これを祖母から教わっていたので、その通りに誠の精神をもって接していたことで、先生にも多くを教えていただき、さらに求めていた理法が見つかったのだと思います。
真の理法が見つかった時、その後変わったことはありましたか?
伊与久: その理法を見つけた時、うちの祖母が昔言っていたこと、やっていたことが思いの外すんなりとできるようになりました。昔はバカにしていて見向きもしませんでしたし、やろうと思っても「無理!」って思っていたことができるんです!「あぁ、なんだこういうことか」と後になって腑に落ちたものです。その頃には祖母はもう他界していましたが、祖母の言っていたことを思い出しながら1つ1つ動きを確かめましたね。
違う道を経たからこそ見えたのかもしれませんね。おばあさまが伝えてくれたことが今の伊与久さんにしっかり残って生きている…感動です(涙)
受け継ぐものと後世に残すもの
稽古会では摩利支天の絵が飾られていましたが、伊与久家でも摩利支天を崇拝していたのですか?
伊与久: 祖母は摩利支天信仰でしたね。吾妻の地域的にも,甲陽という流れからも、そういう人が多かったんじゃないでしょうか。祖母も「摩利支天にお祈りすると体が真っ赤になる」と言ってましたね。更に「太陽日記」というのを書いていました。「太陽を食べると太陽の中に字が見えるんだよ」っていうんです。何を言ってるんだろう、婆さんとうとうボケたか!とずっとからかっていましたが(笑)それで今日は誰が来るとか結構当てるんですよ。外れることも結構ありますが。
祖母は体の真ん中に白いまっすぐな道があるんだと言いました。これが稽古会でもやった太刀之身のことですね。それが摩利支天を念じて太陽を呑み込むようにすると、真っ白に光ったのちに真っ赤になる。最近私もこれが少しわかるようになりました。おそらく日本式の気功みたいなものなんだと思いますね。
そして昔の修験者はきっとこれをやっていたんだと思います。修験も規格が統一されてきて、変わったことをする人が減ってきました。だけど、そういう異端なものの中に本物が残っている事もあると思うんです。祖母の残してくれたものも体系的には残っていませんが、こうやって口伝や身体で伝わっていることの中には見るべきものも残っているのではないかと思うようになってきました。
三重大学の印についての講義のときに聞いたのですが、「太陽からエネルギーをもらう」というのは川上先生もおっしゃってたみたいです。
伊与久: 川上先生にはぜひお話を伺いたいです。きっと今の世に残せない毒や殺法などたくさんご存知なのだ思いますが、伝えないのは今の時代には必要がないから。・・・伝えるとしたら一人でいいんです。古から残る殺法などの危ない技術は、決して弄んでいいものではありません。ただ、それらの技術に通じる心や礼節、そして体使いを身につけるだけですごく豊かなものが得られると思います。私は寧ろそこに着目して後世に伝えていきたいと考えています。
伊賀や甲賀とは違う真田忍者「真田忍”軍”」
SHINOBI – ZM活動として、群馬や長野を中心とした真田忍者の調査もされていらっしゃるとのことですが、どのようなことがわかりましたでしょうか。
伊与久: 吾妻ではないのですが、真田信尹(昌幸の弟)の所領だった甲陽の方に伝わる「甲陽諏訪流」を受け継いでいる或る方から伺ったことがあります。私が思うに真田家の裏の仕事は全て信尹公がメインに行なっていたはずですので、その地域に伝わる技術伝承には興味をそそられます。その方は80歳にならんとする高齢にもかかわらず、猿のように見が軽く、恐ろしい腕前を持っておられる隠れた達人です。
その翁曰く、甲陽諏訪流には諜報術が伝わっていて、忍び込んだ先で迅速に見取り図を描く方法や、そこの通路を何人の人が通ったかの調べ方、侵入経路を確認する方法などが伝えられているらしいです。方法といっても伝書類には「事前に忍び込むこと」くらいしか書いていないのですが、そんな諜報のいろはが今もシステマチックに残っているのが面白いと思います。
そんな記録が…!真田丸でも信尹公は暗躍が秀逸な人物として描かれていましたよね。
伊与久: 他にも、中之条にいた忍者でお墓も残っている割田重勝の子孫の方もやはりただものではないです。もう70過ぎのおじさんなんですが、やはりとても身が軽いんですね。その方のおじいさんまではやはり厳しい修行で忍びとしての体術を練り鍛えていたそうで、酔っ払うと近所の若者達を呼んで高い橋の欄干にバッと飛び乗り全速力で走るんだそうです。落ちたら死にますよ。。
割田さんが子供の頃、そのおじいさんが囲炉裏の前に座ってずっと床に拳を打ち付けて拳固めをしているんですって。「忍者はつま先で立たないとダメだから」と、毎日つま先で立たされたらしいです。他にも座った所から飛び上がる訓練とか、手裏剣とか・・・私も同じような経験がありましたから「やらされましたねー」と話が合うんですよね。やはりこのあたりの地域で技術を受け継いでいる者は、幼少の頃から多かれ少なかれ鍛えられている方がおります。
ええー!あの割田下総守のご子孫までいらっしゃるのですか!お会いしてみたい…
伊与久: 私がこういった流れであることをカミングアウトし始めたのがここ数年なのですが、他にも禰津氏や望月氏、山本勘介公や歩き巫女のご子孫の方など、長野・群馬で元真田や武田の諜報として活躍した方のご子孫の方との巡り合わせが最近多くなってきています。
しかし、忍者の調査がなかなか進まないのは、大きいところとしてはみなさん「忍者」と言われたくない家がいっぱいあることだと思います。ある末裔にもこの前お会いした時に「裏切ったり、暗殺したりという暗い歴史があるから、掘って欲しくないこともあるんだぞ」と言われました。吾妻をはじめとしたこの一帯の地域に関しては、その一族がずっと住んでいるから生々しいんですよね。
確かに、生々しさは感じますね。前に中之条のある忍者のお墓に行きたかったのですが、行かせてもらえませんでした。その意味では伊賀や甲賀とはまた違った枠組みな感じがしますね。素ッ破特有の何かが…
伊与久: 「忍者」というカテゴリーは、至極近代の人達が作ったものですよね。我々のような地侍・野武士でありながら戦働きや素ッ破働きをし、普通の兵法ではない山岳戦法に即したもので個人として卓越したスキルを持った人々を果たして忍者と呼ぶかどうか・・・私はあえて、彼らのことを忍者ではなく「忍軍」と呼びたいと考えています。
特に出浦対馬旗下に編成された彼らは完全に忍軍ですよ。この諜者と特殊部隊の編成チームを士分として取り立てるという発想は、武田から芽生え、真田家で完成されたのだと考えています。伊与久の家もそうですが、腕に覚えがあって真田の下についた人達であり、その戦果は侍としても、素ッ破としても大変目覚ましいものでしたから。私見では彼らこそが所謂『真田十勇士』のモデルであったのだと考えています。
真田忍軍!うーん、すごくいい響きですね。確かに忍者とは違うニュアンスです。SHINOBI – ZMの活動は今後どのようにされていくご予定でしょうか。
伊与久: 夢があるんです。群馬や長野にいる、吾妻衆をはじめとした甲陽〜真田の忍軍の末裔の方達が、誇りを持って祖先の働きを世の中に伝えられるようにすること。本当に真田忍者に興味がある人と、彼らの間を繋ぐような、何らかの活動をしていきたいですね。また技術の集結と復興。私のところのものは微々たる伝承に過ぎませんが、何処かで知られざる伝承がなされているかもしれない。そんな方たちに呼びかけをしていきたいと思っております。そしていつの日か、真田十勇士のような架空ではない真田由縁の者たちが結束して、正しく真田には忍軍がいた、ということを伝えていきたいですね。
伊与久松凬にとっての忍者
伊与久さんにとって、忍者とはなんでしょうか。
伊与久: 忍者という言葉の成立があやふやじゃないですか。私にとって忍者とは1つの大きな宿題です。解明しなければならない高い壁なのです。その「忍者」という言葉をいかに攻略するか。その言葉のイメージを糺していけるのかどうか、価値を広めていけるのかどうかが「忍者」に対する今後の挑戦です。それはこの系統の血を受け継いでいる者にしかできないことであり、使命のようなものだと感じています。
Ninjackをご覧の読者の方々にひとことお願いいたします!
伊与久: クールジャパンの流れで今世界に開かれ、ニンジャという言葉も世界的なものになってしまいました。しかしその文化を擁する日本人自体が、つい最近まで真面目に忍者について考えたことがなかった・・・と思います。サブカルチャーとして面白半分もいいのですが、それだけではもったいない。歴史とか生き方とか、あらゆる単語に忍者というワードを入れた時に、今まで見えなかったものが全く違った貌で見えて来ることがあります。
そう、扱い方さえ正しければ日本人にとって忍者というのは財産にも、大いなる強みにもなる存在なのだと思います。そういう観点からみなさんも、少しでもよいので、真面目に忍者というものについて考えたり、学んだりする機会を持っていただけると喜ばしい限りです。
ありがとうございました!
編集後期
久々に本物の忍びの方にインタビューをさせていただきましたが、言葉の重みがやはり違いますね。
ここでは書けないいろんな情報もお話いただきましたが、真田忍軍がここに来て凄いことになっています。
伊賀や甲賀の次に来る忍者の聖地は真田かもしれませんね。
何よりも「忍軍」というのはめちゃめちゃ響きがカッコいいですし、真田の忍び本来の姿をよく表しているような気がしてきます。
忍者という言葉との戦い。
非常に長くて困難な道だとは思いますが、これは忍者界すべてで立ち向かっていかねばならない宿題です。
Ninjackもこの大きい壁に対して何ができるのか、改めて考えさせられました。
世界各地で活躍する諸将の皆様へ、Ninjack.jpを通じて各地の忍者情報を密告する編集忍者。忍者に関することであれば何でも取材に馳せ参じ、すべての忍者をJackすべく忍んでいる。