徳川家康からの初の大仕事受注!甲賀忍者の「鵜殿退治」とは?

お待ちかねのKOKA WARS エピソード2が公開されました!

え、待ってないですか?

エピソード2の舞台は家康から初めて大仕事の受注をもらい、難解な任務を遂行した甲賀忍者の戦「鵜殿退治」です。

今川家の人質から解放され、これから挽回する大事な局面を見事にサポートしたことから、この事件をきっかけに徳川家康と甲賀忍者の結びつきが強くなっていくのです。

家康にとっても甲賀忍者に取っても非常に大事なター忍グポイントですので、しっかり抑えておきましょう!

桶狭間で人質解放された家康が遂に動く

三河の松平家に生まれた家康は、幼き頃から今川義元のもとで人質になっていました。

人質生活の間に元服し、義元の姪・瀬名姫(築山殿)を妻として娶り、長男・秀康や長女も授かった家康。

あるとき父の墓参りの名目で、義元から三河への一時帰参を許されて岡崎城へと帰った際、家臣から「家康の帰還を夢見て兵糧米や軍資金を蓄えている」ということを聞き、家康はいずれ独立して家臣に報いようと決意したのでした。

そんな折に家康に独立のチャンスが訪れたのです。

信長による桶狭間の戦いですね。

これにより今川義元は絶命し、家康はこの隙に三河の岡崎城に帰ります。

家康は今川家からの独立を図り、三河における周囲の豪族達を味方につけて領地の拡大へと進んでいくのでした。

義元を討って、今や赤丸急上昇中の織田信長とも同盟を結び、強力な後ろ盾を得た家康。

次に攻めるは今川の武将・鵜殿長照が守る上ノ郷城です。

家康は先遣隊として松平清善を派遣しますが、上ノ郷城はなかなかの堅固な城。

簡単には落とすことができません。

そして家康はあることに気がついてしまいます。

家康「あ!そういえば駿府城に嫁と子供を人質に撮られたままだったー!」

実は織田信長と同盟を結んだあと、今川氏真は激怒して今川方についている築山殿の両親は切腹させられています。

このまま攻め続ければかわいい嫁と子供の命が危ぶまれることに。

今川に反旗を翻した以上、上ノ郷城も早く落とさねばなりませんし、人質も早く取り返さねばなりません。

どうしたものか…

無理難題な時こそ甲賀者の出番

そこに

自分、甲賀者と知り合いっすけどこういう時こそ忍び使うときじゃないですかね!

と名乗り出た家臣の戸田三郎四郎と牧野伝蔵。

甲賀者といえば「鈎の陣」で足利幕府軍をゲリラ戦法でコテンパンにした特殊な技を使う集団です・・・

家康「すぐ甲賀者を呼んでくるのじゃ!」

と家康からの下知を受けた二人は忍びの者たちがいる甲賀へと向かったのでした。

甲賀の地で待ち受けていたのは伴与七郎資定と鵜飼孫六の2人の忍び。

2人とも忍びの名家・甲賀二十一家に名を連ねるエリート忍者です。

事情を聞いた2人は二つ返事で快諾し、伴与七郎は80人・鵜飼孫六は200人もの忍びと共に三河へと急ぎました。

家康本軍+甲賀者助っ人集団による上ノ郷城攻めが本格的に始まります。

甲賀流錯乱戦法と火計の嵐!

来たる1562年2月26日、甲賀者たちは上ノ郷城の物見(偵察)をした上で、夜襲を仕掛けることにしました。

鵜飼孫六率いる甲賀忍者は敵側の服装に着替え、上ノ郷城内に潜入します。

鵜飼たちは大人数で城の櫓に火をかけ、しかもわざと沈黙したままで敵をなりふりかまわず斬りまくりました。

場内は大混乱!

誰が敵なのか味方なのか全くわからず、誰を信じてよいかわからない状況に陥ってしまいました。

鵜飼孫六の仕業により、しっちゃかめっちゃかになってしまった上ノ郷城の本丸。

この隙に伴与七郎・伴太郎左衛門の伴家の忍びが動き出します。

甲賀者の手勢80人を連れて城内へと侵入し、まず鵜殿長照の息子である氏長・氏次を生け捕りにします。

そして城主・鵜殿長照を見事打ち果たし、鵜殿一族70人余りを征伐したことで上ノ郷城は落城したのでした。

この戦の状況と甲賀忍者の活躍については、「三河後風土記」では以下のように記しています。

甲賀の者共を遣わし城を襲わせ、城中騒撹の虚に乗じて、神君烈しく指揮して攻め立て給えば、鵜殿兄弟も今は防戦の術尽きて・・・一族七十余人討ち死にし、城はたちまちおちければ・・・

from 三河後風土記

三河一向一揆制圧の助太刀と家康の感状

こうして上ノ郷城を落とし、鵜殿の息子たちを人質とした家康は、今川家に使いを出し人質交換を申し出ます。

家康は鵜殿兄弟の命と引き換えに、築山殿と秀康を取り戻すことに成功したのです。

しかし、実はこの時期、家康は「伊賀越え」や「三方ヶ原の戦い」に次ぐ家康三大危機の1つ「三河一向一揆」に苦しめられていました。 一向宗の衆徒たちに今川の残党なども相乗りして、家康のいる岡崎城のすぐそこまで迫ってくるのです。

甲賀忍者たちは鵜殿退治が仕事でしたが、甲賀の里へ帰る前、ついでに家康の一揆の制圧にも助太刀をしていたようでした。 甲賀忍者たちは岡崎城と目と鼻の先にあった土呂・張崎の集落にある御堂なる建物をぶっ壊してやったのです。 土呂は三河一向宗教徒が集まる集落であり、一揆拠点のメインの1つだったに違いありません。

これには家康も大変満足して、家康から 家康「今後甲賀二十一家の者を親しく扱うから、徳川のことこれからもよろしくね!」 とお言葉をいただき、以後、甲賀忍者は徳川家というメインスポンサーを得ることになるのでした。 そのことは寛永7年(1667年)に「乍恐以訴状言上仕候」で書き始められた甲賀古士の由緒書に記されています。

権現様へ甲賀古士共ご奉公申上げ候由来は、権現様未だ三州に御住国の刻、御敵御同国の住人鵜殿藤太郎御退治の儀を、永禄五年二月戸田三郎四郎殿と牧野傳蔵殿との御両使を以って甲賀二十一家の者共に御頼み成され候に付、早速御請申し上げ、甲賀の者二百人三州へ罷り越し、同二十六日の夜、鵜殿の城へ夜討に入る。即ち、鵜殿の首を捕り、子供二人を生捕り候て差し上げ、其の外にも名の有る家来二百余人を焼討に仕り、其のついでに土呂張崎の御堂まで踏み落とし候得ば、斜めならず御感悦成され、御前へ甲賀の者を召し出だされ御盃を下され、自今以後は甲賀廿一家の者共を余所には御覧成され間敷候間、廿一家の者共も、御家の儀粗略に存じ奉り間敷の旨仰せ出でられ、その以後よりは数度御密通の御用仰せ付けられ候御事。

from 乍恐以訴状言上仕候

CHECK POINT

こうして鵜殿退治をきっかけに結びつきを強くした徳川家康と甲賀者。

甲賀流忍者検定の過去問では鵜殿退治はそんなに多く問題として出たわけではないですが、前回の忍者検定では徳川家宗家の方を講演に招いていたりしましたから、徳川と甲賀の関係を問う問題は今後増えていくかもしれません。

なのでしっかりポイントは押さえておきましょう! 

  • 「鵜殿退治」は家康が上ノ郷城で鵜殿長照を征伐する話
  • 甲賀者200名以上が参戦し、人質を生け捕り城主を討伐
  • 人質は家康の正室・息子と交換し、ついでに一揆制圧にも協力

とか偉そうなことを言いながら、結局今年の忍者検定の上級は受けられませんでした。。。

来年こそは受けたいと思うので、今年中級受かったみなさんも一緒に勉強しましょう!

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