「忍びの国」で描かれる虎狼の族・伊賀忍者達は本当に人でなしだったのか?

初日の観客動員数から、興行収入30億円を突破するであろうと騒がれる映画「忍びの国」。

これまでにない「忍者 vs 侍」のスペクタクルな合戦模様は、圧巻の一言で片付けられない迫力でした。

この映画で描かれる忍者達は、主人公の大野智が演じる無門をはじめとして、作中で「虎狼の族(ころうのやから)」と呼ばれ、人でなしの集団。

実際にかなりのとんでもない野郎達でしたね!

パンフレットに描かれた原作者・和田竜先生のコメントでも以下の通りに書かれているように、伊賀忍者に関する史料から「虎狼」の字が示すような残忍な人物像が浮かんで来たと話しています。

・・・伊賀惣国一揆や第一次伊賀攻めについて書いた資料を読んでいると、当時の伊賀の人たちはむちゃくちゃだったということがわかったんです(笑)。なにより金が大事で、すごく悪くて、残虐で。

映画「忍びの」国パンフレット

無門みたいな虎狼の族だった伊賀者は、本当にあんなに残虐で人でなしだったの?やっぱりさすが忍者汚いのかな?

このような疑問にお答えするために、当時の伊賀者たちの実情について追っていきたいと思います!

伊賀忍者の前身「黒田の悪党」

映画の舞台から時を遡ること、約300年ほど前の鎌倉・南北朝時代。

この頃の伊賀の地域は、あの大仏で有名な東大寺の荘園(朝廷から私有することを許された私有地)でした。本来は私有地であろうと朝廷に税を納めなくてはならないところ、東大寺はこれを無視してどんどん領地を拡大して、やがて伊賀の地にある荘園「黒田荘(伊賀国名張)」も治めるようになったのです。

東大寺からその黒田荘を守る役目を負っていた、伊賀に住む地元の一族がいました。 忍びの国に出てくる百地三太夫の先祖とも言われる大江一族です。

彼らは東大寺の支配のもとで事務官のトップとして律儀に管理業務をこなしていましたが、6代目くらいになるとそれはもうなかなかの権力を持つようになってきました。

時のトップである大江清定は、北伊賀にいた服部氏(そのときは幕府の御家人)と、伊賀の近くで山伏修行をしていた修行者たちに声をかけて武士団を結成し、東大寺と対立するようになりました。

ここでいう「悪党」とは、ワルモノと言う意味というよりは権力におもねらない強い奴という意味です。ちなみに源義経に使えた伊勢義盛や楠正成も悪党と言われていました。

この悪党たちはその後も領地をどんどん開拓していき、伊賀一帯を支配するようになりました。この黒田の悪党こそが、伊賀忍者の前身だったとされています。

悪党たちは何をしていたのか?

この悪党たちについての記述が播磨国の地誌『峯相記』に残っています。

そこには虎狼の族の姿を具体的に表す驚くべき記述がありました…。

異類異形の様相で、乱暴、海賊、寄取、強盗、山賊、追落などを行い、柿色の着衣に女物の六方笠をつけ、人に顔を合わせず目立たないようにして、城に籠ったり、攻撃したり、裏切ったり、約束を守ることはなく、博打を好み、忍び小盗を生業としている

山田雄司著「忍者の歴史」(KADOKAWA)

衝撃…!こ、これはまさに残忍で人でなしの虎狼の族・・・!

しかしこの文書は僧侶のお話を聞いた誰かが書いたものであり、どちらかというとお寺側の立場の人のお話が書かれたものでした。

さんざんにやられた東大寺側からしたら、悪党たちの所業はまさに残虐非道なものと言いたいでしょうから、このような悪い書き方はされることは仕方ないかもしれませんね。徳川の天下取りも明治維新も勝てば官軍ですから、敗者は後世では悪いようにしか伝わりません。

ただ実際にはそんなことはなくて、東大寺も同じことをしていて、悪党はあくまで敵である東大寺にしか手を上げなかったとする見解もあります。

・東大寺も昔は朝廷に対しては同じことをしていた
・幕府が悪党に手を出せなくしたのも東大寺と朝廷の取り決めだった
・悪党は住民からはモノを奪わず、東大寺に運ばれる年貢だけを狙った
・悪党が相手にしていたのは東大寺に味方しようとする敵のみだった

山北篤「概説忍者・忍術」

黒田の悪党と東大寺との戦いは実に100年間にも及び、その中で黒田の悪党達は立地を活かした局地戦でのゲリラ戦法を身につけていくことになります。

伊賀に住むそれぞれの一族は、その過程で自分たちの小さい領地内に各自で砦を作り、次第に伊賀の中でも小競り合いが頻繁に起こるようになりました。山々に囲まれた10数キロ四方の中で600以上もの城があるというのは尋常でなく、現在日本一の城郭密度を誇るのが伊賀の地なのです。

このような経緯から、戦国時代に突入するまでの伊賀の人々は、確かに自分のことしか考えない虎狼の族に近かったのかもしれません。

しかし、この時期の伊賀には武力で守ってくれるような頼りになる領主がいませんでした。伊賀の人々は、ただ自分たちが強くならなければ自分も家族も虐げられるような、誰も守ってくれない環境の中で生き残るためには、虎狼の族としてたくましく生きていくしかなかったのではないでしょうか。

実際には同じ姓を持つ一族では固まっていたようですので、親類や家族は大事にしていた人たちだったのかもしれません。

戦国時代に突入!強大な敵は外にいる!

©忍びの国製作委員会

伊賀の者達同志で小競り合いをしている中、やがて戦国時代になると各地で大名たちが名を挙げていきます。

この時期になっても伊賀の国は大名の力が弱く、誰も自分たちを守ってくれません。ということで、まずは同じ親類同士で何かあったら結託する同名中(どうみょうちゅう)を組織し、その後だんだんと地域連合を結成して、最終的には伊賀全体を巻き込む「伊賀惣国一揆(いがそうこくいっき)」が結成されることとなりました。

ここでいう一揆は農民がクワをもって「年貢下げろぉ!」と反乱を起こすものではなく、民衆同士が結束して軍事組織を作ることをいいます。

この一揆の掟書ができたのが1569年、ちょうど信長が伊勢を平定した年でした。隣国の伊勢が織田に降ったことから、次は伊賀に攻め寄せてくる可能性が高くなってきた頃です。

このことから、伊賀の人達は小競り合いをしている場合ではないと考えなおし、力を合わせる道を選んだのでしょう。

確かに今までいがみ合っていた敵同士が今日から仲間だと言われても、それはなかなか難しいですよね。

ですが映画の舞台となる第一次天正伊賀の乱までは10年もあります。この間に果たしてずっと小競り合いをしていたのかは疑問に思う部分はありますが、史実としても下山甲斐守が裏切ってこの戦は勃発したことは事実です。

このような背景から考えると、下山甲斐守の裏切りは果たして…
・掟書という法は作ったけれど、それを守りきる信頼関係は築くことができなかったのか
・手を取り合うことはできたが、信長の力が強大すぎて乱世を生きるための行動に出たのか

どちらだったのでしょうか。

僕としては、現世で伊賀に住んでいる人たちはめちゃめちゃいい人達なので後者の方を信じたいところではありますが…忍びの国という作品としては、人でなしの虎狼の族としての忍者集団の描かれ方はかなりそそられました!

映画「忍びの国」では前者の解釈で作られていますが、裏切った下山甲斐守がモデルとなった「下山平兵衛」の葛藤にも注目して見てみるとおもしろいと思います。

そして、自治軍事組織であり明確なリーダーがいない伊賀惣国一揆のシステムは、果たしてうまく機能するものだったのでしょうか。

次回は忍びの国における伊賀を作り上げているシステム「伊賀惣国一揆掟書」が具体的にどんなものだったのかを解説したいと思います!

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