江戸の町に眠る ”神になった忍者” 「 高坂甚内」とは?史跡紹介も

忍者も神様に!日本の八百万(やおよろず)精神 身の回りのあらゆる物や事象に神が宿るとされてきた不思議な島国 NIPPON。 天候も災害も物、ひいては死んだ人もすべて神様として崇め奉っていた八百万の国です。 その昔、非常に学問・政治に長けていた菅原道真の死後は、”学問の神様”として太宰府に祀られていますよね。 こうやって、日本人は故人を祀り、そのご利益にあやかろうとお参りなどをしてきました。 しかし、まさか忍者が神として祀られている神社が東京にあるのをご存知でしたでしょうか? “激レア忍者神社”と祀られている忍者について紐解きます。

武田家の忍びとして育ったエリート忍者 “高坂甚内

浮世絵 時は遡り戦国時代。 甲斐の虎・武田信玄は、武田家の中で “三ツ者” と呼ばれる忍び集団を雇っていました。 ちなみに信玄が抱えていた忍び集団は、このタヂカラ軍団の三ツ者と、くのいち歩き巫女集団の「梓衆」があります。 信玄亡き後、武田家の家督を継いだ勝頼に仕えた忍者が”高坂甚内”でした。 高坂甚内は武田二十四将の一人、高坂昌信の一族を自称していたようです。 この勝頼の時代になってからというもの、長篠の戦いで織田に信長にやられてからというもの、武田家は一気に力を失って行きます。 忍者集団も活躍の場がなくなっていき、高坂甚内も三ツ者と呼ばれた時代に比べると目立った働きができなくなりました。 そして、武田家が滅亡すると、高坂甚内は祖父に連れられて諸国を行脚することとなりました。 一説によると、諸国行脚の途中、宮本武蔵に見いだされて剣を学び、奥義を究めた!とされています。 その後何があったかわかりませんが、徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸のまちづくりを推進しているところで、高坂甚内は盗賊行為を働くようになりました。 おそらく忍者の働き口がなくなったための苦渋の決断でしょう。 エリート忍者がその妙技を悪事のために使ってしまったわけです。

風魔との戦い! そして神になった生涯

時を同じくして、同じように滅亡した北条家のお抱え忍び・風魔小太郎率いる風魔衆も江戸にて賊を働くようになります。 このため、高坂と風魔の縄張り争いが勃発しました。 高坂甚内と風魔小太郎が創作などでライバルとして取り扱われるのは、武田vs北条以外にもこのような背景が絡んでいたからでしょう。 ついにこれら賊の悪事にこらえきれなくなった幕府側は、連絡をくれた者の過去の罪は一切問わないことを条件として賊に懸賞金をかけました。 高坂甚内は、自分のやったことを棚に上げてすべて風魔衆に罪をなすりつけ、幕府側に風魔衆の棲み家を案内します。 風魔小太郎を含むあらゆる風魔衆を捕縛させました。 これによって、風魔衆は江戸の町から消え去ったため、江戸における盗賊は高坂甚内の独壇場になり、高坂甚内はまたも江戸で賊行為をやりたい放題となります。 そんな中、賊仲間であった “鳶沢甚内” という者に裏切られ、高坂甚内は幕府に追われることとなります。 なんと、この鳶沢甚内は、元風魔衆の一味でした。 裏の裏をかくだまし合い、緊迫しますね。 幕府に追われる頃、高坂甚内は瘧(おこり。マラリアのこと)を煩っていて、瘧が原因で逃げることができず捕まってしまいました。 高坂甚内は、市中引き回しの上、隅田川の分流として流れていた鳥越川にかかる橋を渡って、今の浅草にある「鳥越」という刑場にひっぱっていかれます。 この刑場にて処刑される際、高坂甚内はこう言いました。
ワシが捕まったのは瘧にかかったからじゃ。 ワシが死んだ後、ワシを祀るがよい。 瘧のある者はワシのところへ来ればきっと治してやろうぞ!
こうして高坂甚内は露と消え、その遺言どおり祀られることとなり、民衆の信仰を集めたのです。

現代にひっそりと伝わる甚内神社

このことから、処刑のために高坂甚内が渡った橋を”甚内橋“といい、その後祀られた神社を”甚内神社“といいます。 今でも浅草橋三丁目には甚内神社がひっそりと、陣内橋跡の石碑がほっそりと佇んでいます。
布団屋さんの橋にひっそりとある甚内橋跡
布団
マラリアに効くとされる甚内神社
神社
甚内神社に行ってみよう
忍者がその忍術を自己のための盗みに使うと、もはやそれは忍者ではないと言われています。 ですが、次第に活躍の場を無くした忍び達がその技術を活かせる先は少なく、盗賊となってしまうのも仕方ない気はしますね。 石川五右衛門をはじめとして、忍者から盗賊に墜ちるケースは多いですが、意外と後世になって人気が出ます。 元はエリート忍者の神社ということで、隠れご利益として “忍術上達” にも効果があるのではないでしょうか。 忍びならばお参りに行くしかないですね!
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