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【Nin-Episode】真田家を支えた「真田忍軍」の全貌を徹底解説!

【Nin-Episode】真田家を支えた「真田忍軍」の全貌を徹底解説!




真田一族といえば忍者!

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大人気の大河ドラマ「真田丸」では、最初から通してなぜか忍者要素がめちゃくちゃ多いですよね。

忍者が出てくるときは風の効果音が聞こえたり、火遁の術が普通に使われるとか歴代の大河ドラマで見たことありません。

昌幸に仕える出浦昌相や信之・信繁の手足となる佐助など、真田を描くにはどうも素ッ破(忍者のこと)の存在は外せない感があるのはなんででしょう。

これは明治・大正時代にブームを巻き起こした「真田十勇士」真田=忍者のイメージを定着させたのはまちがいないと思われます。

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しかしこの真田十勇士はあくまでもフィクション。

モデルとなる人物はいると言われていますが、あまりはっきりしていません。

では真田一族には忍者は仕えていなかったのでしょうか?

いえ、真田一族が活躍した上田や吾妻の地には歴とした忍者が何人もいたのです!

信州や吾妻地方に残る忍者の軌跡

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東吾妻地方(現在の中之条町や東吾妻町)に伝わる「加沢記」「上野國吾妻記」には真田に仕えた忍者の軌跡が見え隠れしています。

もともと真田家が仕えていた武田信玄の時代から、信玄は甲斐・信濃において多数の素破を用いていました。

その時に武田家の素破の呼称「三ツ者」として活躍していたのが、富田郷左衛門出浦昌相です。

彼らは忍者の養成に力を入れ、当時信州と上州の地に存在していた乱波・素破の数はなんと1000人を超えていたとか!

それほど忍者を重宝した武田氏が滅びてからというもの、真田家に仕えた出浦昌相が、その後真田忍者たちとともに活躍していくのです。

吾妻の忍者たちを描く「加沢記」「上野國吾妻記」には、その出浦対馬守とその部下である数々の忍者たちの活躍が結構多く描かれています。

上州・吾妻地方に多かった忍者たち

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天下に名を馳せた真田人軍のほとんどは嵩山城や岩櫃城を中心とする上野国(現在の群馬県)に輩出されていました。

真田家が治める領地にはなぜこんなにも忍者が多いのでしょうか。

それは武田信玄が忍者の教育に熱心だったこともありますが、この辺り一帯が山伏の修行場だったからです。

忍者と山伏の関係はNinjackでも過去何度か解説してきましたが、簡単に言うと忍者は山伏から発祥しているんですよね。

※詳しくは下記の記事をご参考ください。

上野国本山派山伏名所記(寛政6年)によると、吾妻の地には修験道に関連する寺が52ヵ寺も存在していたようで、この一帯は修験者・山伏の聖地だったわけです。

修験者多きところに忍者あり。

つまり忍者がいくらでも生まれてくる環境にあったということとなり、これは伊賀や甲賀、戸隠など他の忍者聖地の地域性とも酷似しています。

伊賀や甲賀は最初は傭兵集団として一定の自立性を持っていたのに対し、信濃や上野の忍者たちはどちらかというと武将に丁寧に育てられたサラリーマン忍者といったイメージですね。

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真田丸で真田邸に掛かっている掛け軸「白山大権現」も修験道の山岳信仰の神様で、真田家は山伏とも深いつながりがあったと予想されます。

つまり忍者をよく使いこなせるコネも多分に持ち合わせていたわけです。

真田と忍者のつながりはかなり深いものだったのでしょう。

真田に仕えた英雄!「吾妻七騎」にも忍者あり

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「なんだその画像は!」って聞こえてきそうですが、関係あるのでブラウザを閉じないでください(笑)

前回の岩櫃サマーフェスタのNin-Repoでもお伝えした吾妻七騎は、吾妻記に綴られる吾妻の地で真田家のために戦い、中でも特に武勇や名声を誇る地侍のことをいいます。

年代によってそのメンバーが変わるので、吾妻記では「その1〜その4」まで入れ替わり立ち替りメンバーが記されていきます。

最初はその名の通り7人だったのですけどね。

「AKB48」も48人かと思いきや今では120人近くになっているようですから、吾妻七騎もあくまでグループ名として捉えておくとよいでしょう。

おそらく初代メンバーは中でも特に古今無双のスゴイ人たちだったと思います。

言うなればAKB48のメンバーの中でも初期にダントツの人気を誇った「神7」のような存在です。

「吾妻神7」と言ってもいいかもしれません!

その初代・吾妻七騎の中で特に多大な働きをしたのが割田下総唐沢玄蓄

その他書物や伝聞、中之条の歴史博物館の展示などから忍者として紹介されている苗字をピックアップしてみると、吾妻七騎の中でも下記のメンバーが忍者だった可能性があります。

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この中でも「本当は忍者だけどわかってないだけ」って方もいるかもしれませんので、現時点では、ということでまた調査したら更新していきたいと思います。

忍者活躍の年表

吾妻七騎として記されていなくても、他の加沢記の記述などからも多くの忍者が吾妻地方で活躍していたようです。

中之条町の歴史博物館で紹介されていた年表を文字に起こしてみました。

真田忍軍の活躍年表
(1563) 角田新右ヱ門 昌幸へ内通
(1571) 来福寺左京 忍者養成
(1573) 忍者八右衛門 柏原を放火
(1573) 出浦昌相 忍者隊長へ
(1573) 唐沢玄蓄 金の馬鎧奪取
(1573) 割田新兵衛・唐沢玄蕃 中谷城・尻高城放火
(1577) 割田下総 中之条横尾に引っ越す
(1580) 真田昌幸 岩櫃城に防諜の軍令を下す
(1581) 割田下総・唐沢玄蕃 尻高城に忍び込む
(1582) 唐沢玄蕃・割田下総 手古丸城の戦いで活躍
(1582) 割田下総 嵩山・大戸城で奮戦
(1583) 割田下総 北条戦中に中山城で馬を奪取
(1584) 割田下総・唐沢玄蕃 中山城攻め
(1585) 割田下総 白井の原で名馬を奪取
(1586) 割田新兵衛 五乱田にて戦死
(1589) 割田下総 大戸城攻め
(1590) 小渕・一場 vs 北条忍者との忍者合戦
(1590) 割田下総 松井田合戦
(1615) 田村・剣持 大坂夏の陣で活躍
(1618) 田村佐次右ヱ門 自刃
(1618) 割田下総 出浦に捕獲される

これだけの真田忍者が戦国の時代に活躍していたんですね!

特に割田下総守と唐沢玄蕃の活躍には目をみはるものがあります。

彼らの具体的な活躍はどんなものだったのでしょうか?

というのを不定期で連載していきたいと思いますので、お楽しみください!

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