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【Nin-Semi】密かに甲賀者も参戦!?甲賀を忘れてはいけない「伊賀越え」

【Nin-Semi】密かに甲賀者も参戦!?甲賀を忘れてはいけない「伊賀越え」

神君伊賀越えには甲賀者も!

大河ドラマ真田丸の第7回放送「逃走」で、大変コミカルに描かれた神君伊賀越え

服部半蔵の「押し通ります!」の忍者らしからぬやっつけ感がハンパなくて、お茶の間を沸かせましたね。

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この伊賀越え自体は読者の方々もほぼご存知だと思われますが、一応解説しておきますと…

天正10年6月、織田信長が本能寺の変にて明智光秀の兇刃に倒れたとき、たまたま堺を見物していた徳川家康が明智軍や落ち武者狩りを恐れて伊賀の地を経由して三河まで逃げ帰ったできごと。 付き従う武将は34名しかおらず、途中穴山梅雪が殺されてしまうなど大変な窮地であったが、伊賀の地に詳しい服部半蔵や地元の伊賀忍者の手引きもあって、家康は命からがら三河へ帰ることができた。

というもので、基本的に服部半蔵や伊賀忍者の活躍にスポットが当てられます。

しかし真田丸では描かれていない、甲賀忍者の活躍がそこにはあったのです。

いや、むしろ甲賀忍者検定の読み本では「伊賀越えじゃねえ、甲賀越えだ!」という解説がされているほどです。

以下の理由により、伊賀よりも甲賀の方が家康を助けまくったとされています。

 伊賀は服部半蔵以外に家康の逃走を助けたのが柘植氏しか見当たらない
 一方、甲賀には家康からの礼状や安堵状がたくさんの家に出されている
 前年に天正伊賀の乱があったから、家康は伊賀から恨まれてるはず

天正伊賀の乱については忍者かるた特集の解説をご覧ください!

さて、その実態はどうだったのでしょうか?

多数の説がある伊賀越えルート

家康の通った伊賀越えルートはあまりはっきりしておらず、様々な説のルートがあります。

大体の通説では、京都四條畷山口城小川城加田峠白子浜岡崎城あたりを通ったのでは?

とされていますが、家康の囮となった部隊も錯乱のために別ルートを使っていたりして、何が真実かはわかりません。

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この中でポイントなのが甲賀・信楽にある小川城です。

後ほど紹介しますが、家康はまず間違いなくこの小川城付近には立ち寄っています。

ということからも甲賀越えでもあったことは言えるわけですが、その小川城の城主であり、甲賀忍者でもある多羅尾光俊が重要人物なのであります!

家康を手引きした甲賀忍者「多羅尾光俊」

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多羅尾はタラオでも、フグタタラオではありません

多羅尾光俊ちゃんですので、よく覚えておいてください!

彼はれっきとした甲賀五十三家の者で、そのご先祖は鈎の陣でも活躍した忍びの名家にあたります。

この多羅尾氏はなかなかの曲者であり、なんと上記で紹介した第二次天正伊賀の乱において織田信長につき、甲賀にとっては協力関係だったはずの伊賀攻め副大将として果敢に伊賀を攻め立てたのです。

その際、伊賀の者2人を信長側に寝返らせた経歴もお持ちの甲賀忍者。

甲賀が織田につく条件として「多羅尾が伊賀を攻めること」と申し渡されたため、彼の本意ではなかったとは思いますが、信長の期待といい、忍びとしては相当の手練れ感を感じさせますよね。

そして伊賀越えの際は、光俊は息子の光広の家に家康が来たことを聞くと急行して、家康に拝謁して改めて小川城に家康主従を迎え入れたとされます。

ちなみに、このとき光俊は源頼朝ゆかりの勝軍地蔵を家康に送ったとされ、家康は大変喜び、江戸でもこれを重宝しました。

今は東京愛宕神社に飾られているそうです。

光俊は息子の光太、光雅、光広らに従者50人、さらに甲賀忍者を約150人の都合200人ほどを添えて家康を護衛し、伊賀の道を誘導して、伊勢の白子浜まで家康主従を無事送り届けたそうです。

光俊さんがいることによる家康さんの心強さはハンパなかったんじゃないでしょうか。

押し通りまする!」だけじゃなくてよかったです(笑)

実は城じゃなくて寺に泊まる家康

家康は小川城に泊まったとされていますが、2015年の12月に「小川城でなく近くの寺に泊まった」ことが新たに発見されたそうです。

地元の郷土史研究家の方が、小川城の近く「妙福寺」の資料に家康が泊まったという記録を見つけられました。

 1582(天正10)年6月の「本能寺の変」で、徳川家康が滞在先の河内国四條畷から本拠地の岡崎城へ逃げ帰った「伊賀越え」の際、小川村(甲賀市信楽町)の妙福寺に泊まったことを示す記述が浄土宗寺院の資料にあることが、郷土史家の相楽貞喜さん(82)=同市信楽町小川出=の調査で分かった。通説では家康の警護をした地元の武将多羅尾氏の小川城に泊まったとされてきたが、専門家も「極めて信頼性が高い」と評価している。  資料は増上寺(東京都港区)の「増上寺史科集」(1980年発行)と、知恩院(京都市東山区)の「浄土宗全書」(78年発行)。両書は1696(元禄9)年に徳川幕府が全国の浄土宗寺院に提出させた「浄土宗寺院由緒書」が基になっており、国内の東を増上寺、西を知恩院が分担して調査結果をまとめて幕府に提出し、同じものを一部ずつ両寺が所蔵した。  この中で「阿彌陀寺末寺 江州甲賀郡信樂小川村 妙福寺 天正十年六月此寺ニ権現様御一行宿」との記述があった。「権現様」は家康のことで、「天正十年六月」とあることから、伊賀越えでの宿泊とみてほぼ間違いないという。  小川城跡を調査したことがある中井均滋賀県立大教授(日本城郭史)は「中世の山城で人が生活できる場所はないため家康は泊まっていないと思っていた。戦国武将が寺に臨時に泊まるのは当たり前だった。幕府が命じて作られた資料なので極めて信頼性は高く、貴重な発見だ」と話している。京都新聞

城にそのまんま泊まってしまうと、敵からも目をつけられやすいはず。

そこをあえて麓の寺に泊まることで敵の目を掻い潜ろうとしていたのかもしれません。

さすが家康、慎重な男にござりますな!

このへんは去年の試験以降のアップデート情報なので、もしかしたら試験でも問われるかもしれませんね!

CHECK POINT!

家康が命からがら逃げだせたのは忍者のおかげと伝わる神君伊賀越え。

これもちょこっと問題としては聞かれますので、特に以下のポイントをおさえておきましょう!

 伊賀越えは徳川家康がおうちへ帰るお話
 伊賀の前に甲賀を通ってるもん!
 多羅尾光俊が迷子の家康をおうちの近くまで連れてきました

ちなみにこの多羅尾ちゃんは、伊賀越えの後も家康や秀吉との間で大変深いつながりを持っていました。

そのお話はまた次の授業でお話ししましょう!

復習を忘れずに!

参考文献

 忍者検定読み本

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