【受験レポ】「第11回甲賀流忍者検定」上級試験合格体験記(過去問・解答例公開!)

開催告知の記事でも書かせていただいたように、拙者も今回は上級の試験を受けたのですが、最近無事に合格の通知が!!!

上級試験は中級合格者しか受けられず、中級試験もなかなかの難題なため、過去に受けた人もほんの一握り。

過去問を手に入れるのも一苦労という有様でした。

忍者の予備校的機能を目指すNinjackとしては、今後上級を受けられる方に役立つ情報も発信していきたい・・・!

ということで、上級試験の試験内容や様子を事細かにレポートして参りたいと存じます!※甲賀忍術研究会には問題掲載の許可をいただいております。

上級は筆記・巡検・レポートが課される!

当日の受付会場は、滋賀県の甲南駅から徒歩15分ほどにある忍の里ぷらら。

上級と中級はこちらの綺麗なお姉様方3忍衆がお出迎えしてくださいました。

どうやら今回の上級受験者の人数は4名のみで、中級を合格せし選ばれし忍びの者達が集ったようです。

上級試験は一次試験(筆記)・史跡巡検・二次試験(レポート)から構成され、この全てを突破しなければならない難関試験となっております。

初級・中級までの筆記試験は四択の選択式問題で選択肢の中から選べばよいのですが、上級の一次試験はなんと記述式問題!

50問もの問題が出され、生半可な知識では絶対に回答できない上級ならではの知識が試される問題となっております。

Ninjackを読んでいれば高得点がとれたかも…な1次試験

第1次試験問題は問題1・問題2の大問が出題され、以下のような内容となっておりました。

問題1. 以下は小笠原昨雲著『軍法侍用集』(元和4年(1618)成立、承応2年(1653)刊行)の窃盗(しのび)の巻上の一部である。(   )に適切な言葉を入れよ。

第一、諸家中に( ① )の者あるべきの事
ー、( ② )の下には、( ③ )の者なくては、かなはざる儀なり。大将いかほど( ④ )の上手なりとも、( ⑤ )と足場とをしらずば、いかでか謀などもなるべきぞや。其上番所目付用心のためには、( ③ )をこころがけたる人然るべし。されば、( ① )に、むかしより比道の上手ありて、其( ⑥ )に伝はり今に之あるといふ。然る間、国所の名を取りて、( ① )衆とて諸家中にあり。
第三、( ③ )に遣わすべき人の事
一、( ③ )に遣わすべき人をば、よくよく( ⑦ )あるべし。第一、( ⑧ )ある人。第二、( ⑨ )のよき人。第三、( ⑩ )のよき人なり。( ⑪ )なくては( ③ )はなりがたかるべし。但し其役人と定まり、常々比道の( ⑫ )ある人は他事には不才覚なりとも、吟味あるゆへに、 ただ人の( ⑪ )よきほどは之あるべきなり。されば前にいふごとく( ① )衆然るべきなり。
第五、( ③ )の人こしらへの事 付けたり案内を問ふ事
一、敵の法度のしなしな・備へ手くばり・あひことば・敵の大将・物頭の( ⑬ )をみしり・旗幕の紋・みちすじ・( ⑭ )・家居までも( ⑮ )などにして帰るべきなり。又あまりあなたこなたへ 、気をくばり過ぎては、覚もあしく結句専一の事などを、わするるものなり。光も( ⑯ )懐中あるべし。万事覚書のためなり。
第七、( ③ )火を持つ事
ー、( ③ )火を持つこと肝要なり。( ⑰ )を宿として敵地にては、( ⑱ )に近づき、火をもとむる事なりがたし。その上味方を待つ( ⑲ )などにも、( ⑳ )をたてることあり、されば火を持つ事専なり。
第九、水ある所を知る事
ー、水をたずぬるに心得あり。( ㉑ )の生ひたる所、白鴎(かもめ)・( ㉒ )などのちかづく 所、( ㉓ )険阻なる下には、ながれちかし。加様の所に目をつけ、尋ぬべきなり。
第十一、( ③ )習ひの事
ー、( ③ )をする人は、内々見をかるべき事などは、随分見とどけ( ㉔ )とどけ書きしるし 、取り合ひ半ばにも案内を知り、表裏を以て敵中にしのぶなり。又しらぬ国などへしのび入り、 大将の( ㉕ )をも書きしるし帰ることは、他国の( ③ )と常々にしたしみ、方々に近付き之ある故、其の人の書き置きたる( ⑮ )を取りて帰るなり。されば( ③ )と( ③ )の出あひて、 物語するに、巧者の入る事にて此れあり候なり。言葉の品をもって、味方のよわみにならぬやうにはなすべし。又敵の言葉に心を付けること、専一なり。(以上)

どうでしょう…結構難しいですよね。

そもそも「軍法侍用集」という書物すらほとんどの方は忍者関連の書であることすら知らないんではないかと思います。

過去は正忍記などから問題が出たケースがあるようですが、軍法侍用集は萬川集海にも結構引用されているものの、その存在は結構マニアックだったりするのですよね。

でも…これについては最近Ninjackにて解説特集をしていまして、たまたま勉強していたのでラッキーでした!

うわーやっててよかったー!これなら回答できる…!

ただ記事にしてなかった第七・九・十一はほぼ全滅でしたね…。

来年は軍法侍用集はさすがに出ないと思いますが、ちゃんと連載していれば満点だったはず…執筆がんばります!

解答はこちら
①伊賀甲賀・甲賀伊賀 ②大名 ③窃盗・忍・しのび ④軍・戦 ⑤敵・敵対者 ⑥子孫 ⑦吟味 ⑧智 ⑨覚・記憶力 ⑩口・愛想 ⑪才覚 ⑫心がけ、心掛 ⑬面・顔 ⑭山河 ⑮絵図・地図 ⑯墨筆・矢立・筆 ⑰野山・山野 ⑱人家・家 ⑲合図 ⑳煙 ㉑柳 ㉒鷺 ㉓山・丘 ㉔聞き ㉕寝間・寝室

続いての問題2は、甲賀忍者にまつわる歴史問題です。

問題2. 以下は「改正三河後風土記』第8巻より転写した。( )に適切な言葉を入れ文章を完成せよ。

西郡落城( イ )長照生捕 付(つけたり)( ロ )君人質替の事
 永禄五年三月( ハ )神君は去年東条・西尾・永沢等の城々攻落されし其の勢に乗じて、今川方( イ )長介( ニ )が西郡( ホ )の城に有りけるを攻めらるべしとて、松井左近忠次を其大将に命ぜらる。忠次直ぐに打ち立ける所に、物頭三原三左衛門申しけるは「此城( へ )険阻に拠れば、( ト )にせば( チ )多く損すべし。幸御旗本( リ )衆所縁の者あり。其の縁に付て( リ )の徒を招き、場内へ( ヌ )を入置然るべし」と諌めければ、忠次尤もと同じ、( リ )より( ル )資家を始め、( ヌ )に慣れたる兵( ヲ )余人を招きて、この徒を所々に伏置て、三月十五日の夜、場内へ( ヌ )入らしむ。やがて城内( ワ )に火をかけ、( カ )は態と声にも立てず、隙間なく乗入て切て廻る。城中には( ヨ )のもの有と心得散々に敗走す。城の守将( ニ )は城の北の方護摩堂の方へ逃行所を、( タ )資定駆寄て突伏て( レ )を取。其子藤太郎長照・勝三郎長忠伴伯耆守資継がために生捕らる。( ハ )御出馬に及ばず、此城( ソ )ければ、松井左近が功を大いに称賛し給ひ、伴与七郎にも翌年に至り、感状を賜ふ。此の城をば久保佐渡守俊勝をして守らしむ。
今川( ツ )は西郡の落城を聞きて大いに怒り、( ネ )の人質を詳せんとすれども( ハ )の北方は今川の一門関口親永の( ナ )故さもなし難く日数を送る所、石川伯耆守数正是を聞きて、もし主君の若君( ラ )にて害に逢給ふ事あらんには、( ム )するもの一人もなきは、当家の恥辱なり、此事告る共主君許し給ふまじと思ひ、家に其趣を書置し、( ラ )に趣て若君に付添進らせたり。( ツ )は( イ )も親族なれば、其子両人( ネ )に生捕になりしと聞きて、大いに憂るよしなれば、関口が方まで北方若君二方と( イ )が子二人とを( ウ )んと申入れけるに、( ツ )悦び早速許諾しければ、伯耆守は岡崎へ帰り、其事を申上る。( ハ )も甚悦給へば、伯者守は( イ )兄弟をともなひ( ラ )へゆきて、今川方へ渡し、北方と若君を請取、供奉して( ネ )へ帰る。
( ネ )には君臣共に大に悦び数正が今度の功を感ぜずといふ事無く、比後は今川方とは弥(いよいよ)御手切となりければ、( ツ )大いに憤り、叔母聟関口形部少輔親永に( ヰ )らせけり。然るに( ネ )の御家人等は只今まで人質を( ラ )へ出し置もの多し。今川方小原肥前守鎮実三州吉田にて人質を預りけるが、此頃松平与次郎清善が今川へ出し置しを捨て、( ネ ) へ其妻を進らせたりと聞きて、大いに怒り兼て今川方へ出したる人質の女子、其外( ネ )方の人質11人、吉田の城外竜念寺口に於て串刺にしたりける。これを見る者小原が暴悪を爪弾して悪(にく)みける。

これはNinjackでも以前紹介させていただいた「鵜殿退治」の件ですね。

おそらくこの記事を読んでいれば半分以上は解答できたのではないかと思います。

が、自分もこれ書いたのが2年も前だったのでほとんど忘れてしまっていました…。

一番凹んだのは、鵜殿の「鵜」と駿府城の「駿」が書けなかったことでしょうか…

これはマジで恥ずかしい…!最悪だ…!

午後の巡検のとき車で送ってもらっていたときに、試験監督の人から「鵜殿の鵜がかけてなかったですね!」と言われて死にたくなりました(笑)

解答はこちら
イ:鵜殿 ロ:信康 ハ:神君・元信 ニ:長持 ホ:上郷 ヘ:要害 ト:力攻め・力責 チ:味方 リ:甲賀 ヌ:忍・窃盗 ル:伴太郎左衛門 ヲ:八十 ワ:櫓々 カ:寄手 ヨ:返忠、裏切 タ:伴与七郎 レ:首 ソ:陥り・落 ツ:氏真 ネ:岡崎 ナ:息女 ラ:駿府・静岡 ム:殉死 ウ:取替、交換せ ヰ:腹切・切腹させ

なお試験監督の方がおっしゃっていましたが、コツとしてはこういうときにも諦めずに解答がわからなくてもなにか書くこと

1問が2点なので、それに近い答えがあればおまけの1点をつけてくれるようです。

50問×2点の100点満点ですが、果たして何点取れているのでしょうか…?

史跡を巡り解説を聞く巡検タイム

磯田道史先生の特別講演も終わり、初級・中級の方は結果発表。

初級・中級はその日のうちに採点がありますが、上級は後日レポート提出なので当日ではまだわかりません。

そのレポート課題に関わる現地を視察するため、午後は車でどこかへ連れて行かれます…

山に捨てられて自力で戻ってこいとかいう試験だったらどうしよう…ドキドキ…

車の中で午前の筆記試験の解答と、上級のレポート問題、参考資料が手渡されました。

上級のレポート問題のお題は、以下のようななんともマニアックで心震えるような問題でした。

第11回甲賀流忍者検定 上級二次試験問題】
設問:
天正9年(1581)7月某日、貴方は甲賀望月氏一統を率いる柑子村の村嶋城主である。本日、甲賀郡内小佐治村佐治城主佐治為次の直々の訪問を受けた。「近く織田信長が伊賀を攻めることになったので、織田軍の一翼として参戦してほしい。ついては1ヶ月後を目途に、100人の兵を整えて織田軍からの連絡を待ってほしい。以上は安土の信長からの伝言である。」という。
さて貴方は、いかなる理由でいかなる返答をするか、その後いかなる準備ないしは対策を行うか。因みに望月一統はその時点で甲賀郡内数か所に一族の拠点を有すると共に、伊賀にも三ヶ所に親戚を有していたと仮定する。6月30 日ま でに A4用紙5枚以内で回答せよ。 (以上)

今回回答の要点
・佐治氏への返答の内容とその理由(判断の根拠)
・準備ないしは対策(アクション)の内容とその理由
・その他

回答時に留意すべき点
今回の設問は実は仮定の問題であるが、回答に当たってはあくまで当時の望月氏の頭領としての判断を求めます。考慮すべき幾つもの困難の中で、上級忍者にふさわしい回答を期待する。

回答方法、採点方法:
①A4 ×5枚以内。自筆でも、パソコンで書いてもよい。但し電子データでの送付は受け付けない。
②紙の回答書を添付の返信用封筒を用いて、6月30日必着で送付のこと。
③参考資料を引用することは認めるが、その資料を送付する必要はない。
④あくまで回答者自身の判断を求めている。発想は自由である。
⑤配点は一次試験100点、二次試験100 点の合計 200点で140 点以上を合格。
⑥二次試験で画期的な回答を得た場合は 5~20%のボーナス点を差上げることがある  以上

大好きな甲賀忍者の気持ちになって天正伊賀の乱にどう加わるかって…こんなの楽しすぎるじゃないか!

午前中の筆記試験の鵜殿の「鵜」がやっぱり書けていなかったことはすぐに忘れ、どんな風に解答しようかをずっと頭の中で考えていました。

そうこうしている内に目的地に着いたようです…!

ここは甲南町柑子村で、今回のレポート問題の題材にもなっている望月氏が当時治めていた地域だといいます。

そしてここが設問にも書いてあった望月村嶋城!

あの甲賀忍者の末裔・渡辺俊経さんの解説を聞きながら、民家の横を通り、実際に城跡を登っていって甲賀の里を眺めます。

そして尾根づたいにすぐ隣に存在したのが青木城!

歩きながら諸々解説をしてくださるのですが、村島城にいた望月・兄と青山城にいた望月・弟は大変仲が悪かったそう。

そして当の望月氏の父親は途中で甲賀内の別の村に行ってしまったとのことでした。

問題には一族の仲の良さについては書いていなかったですが、後々にこの現地巡検中の渡辺さんの解説が効いて来ると知るのは合格通知が来てからでした…。

青山城の頂上で再度試験問題の確認をして、放置プレイはなくちゃんと試験会場や駅まで送ってくださいました。

試験日が6月17日でレポートの提出期限は6月30日…ということは

平日仕事だからレポート作成にかけられる土日は1度しかないっ…!

ということで、帰りの車で渡辺さんに「なんとか次の土日もOKに…」とお願いしましたが、「実際に信長の使者から援軍要請が来た時にはもっと早く返答しなきゃならんですよね?駄目です!」とにこやかに一蹴されました。

それはごもっとも…

土日でなんとか書き終えましたが、W杯日本代表のセネガル戦に間に合わせようともう必死でしたね…。

本当に多方面からリスクやメリデメを整理しなくてはならないので、なかなか頭も気も使うレポートだったのですが6時間くらいで集中して解答しました。

他の人はどんな回答したのかすご〜く気になりますし、次回上級を受けるNinjack読者の方も気になると思いますので、今回は大変恥ずかしいのですが特別出血手裏剣大サービスで、僕の答案を公開したいと思います…!

一応合格したので何らかの参考になればと…!

【 第11回甲賀流忍者検定 上級二次試験回答レポート 】
■前提1:返答にあたっての意識
 佐治氏からの織田軍による伊賀攻め要請に対する返答を行うにあたり、選択肢としては
① 援軍要請を断り、織田軍を敵に回して伊賀側について織田軍に対して抗戦する
② 援軍要請を受け入れ、織田軍に与して伊賀攻めの一翼を担う
の2つがあると思われる。
 いずれを選択するかを検討するにあたって、自分が代々続く由緒正しき望月家の長であり、家族や一族、同名の家の者達を守り、後世へと家を伝えていかねばならない立場であることを前提として回答を行いたい。これは、戦乱の時代にこの甲賀の地において自らの家々を守護する大名はほぼいない中で、同族で協力しながら家を繋いできた誇りとご先祖様達の歴史を自分の代で途絶えさせるわけにはいかないという思いがあるからである。いっそ先祖伝来の忍術を駆使して信長の寝所に単身で忍び込み寝首を掻いて、甲賀による天下統一も考えたいところではあるが…、根底に「確実に望月家を守り、繋ぐ」という意識と志を強く持っているという前提で、最善の対処を行いたいと思う。

■前提2:設問時点における織田家および伊賀衆との関係と歴史
 返答を検討するにあたり、ステークホルダーとのこれまでの関係および選択による当該関係値の変動がどうなってしまうかの確認が必要である。現時点で彼らとの関係はどうなっていたか。ステークホルダーとしては大きく「織田家」と「他の甲賀衆」と「伊賀衆」である。まずは設問時点でのそれぞれのステークホルダーとの関係値を整理しておきたい。
伊賀衆との関係では、永禄12年(1569)、北畠氏援護のために伊賀総国一揆との間で同盟関係を結んでいた。その状況の近辺に書かれたとされる大原同名中惣の掟書(大原勝井家文書)においても、反信長の姿勢を打ち出していた。元亀元年(1570)6月には六角氏が甲賀・伊賀合同の一揆を組成し、柴田勝家・佐久間信盛と野洲川で激突。伊賀衆と共に戦った。【信長公記】にも記載があるように、その際の甲賀・伊賀衆は「屈強の士」とされながらも780人もの者が討たれている。また、天正元年(1573)10月にも信長が北伊勢を攻撃したときに伊賀・甲賀で共同して抗戦していただけではなく、12月には甲賀の和田・五反田と柘植の各奉行との間で共同裁定をしていたという状況である。しかし、天正2(1574)の信長黒印状(山中文書)では佐久間信栄に当てた書状に甲賀者への感謝の意を表す文があることから、このときには甲賀衆が全体として信長に臣従していたことがわかる。【※伊賀市史第一巻】渡辺俊経氏にいただいた「史料3」にも記載があるが、この時には既に望月氏も信長傘下にあり、他の甲賀衆との関係という括りにおいては、①を選択して望月氏のみが織田に抗戦するというのは、織田および周りの甲賀衆と敵対関係を持つことにほかならず、目と鼻の先の甲賀衆に取り囲まれることになるため、非常に分が悪い選択肢であることがわかる。
 一方の伊賀衆は、当該時点でも六角氏にまだ従っていた。この時すでに甲賀と伊賀の軍事連携の体はこと切れていたのである。この状況であったのが7年前。つまり、仮に今回②の選択肢を取って織田方として動くことが原因で、親戚が伊賀に取り残されること以外には、伊賀側との間で新たな確執やデメリットが生まれるわけではないという状況であることがわかる。しかし、設問時点で1点重要な要素として忘れてはいけないのは、この時点から2年前の天正7年(1579)に織田信雄の軍が伊賀を攻めた際、伊賀側は大勝利を得ていることである。その第一次天正伊賀の乱における兵力差は明らかではないが、結果としても士気としても「織田よりも伊賀の方に分がある可能性がある」ということに他ならない。この状況を踏まえた上で佐治氏に対する返答をよく考える必要がある。
 なお、その他に検討に値する要素として、望月家中における自身の統率力の問題があるといえばある。仮に方針を打ち出したとしても、配下の者が従わないというリスクもないとはいえない。例えば長男と次男の不仲など若干の不安要素はあるが、望月家当主としていざと言うときの統率力は発揮できるものと仮定して、ここでは一旦検討からは除外する。
 上記の状況を以下にまとめるが、これらを前提としての対策を検討していきたい。
・周りの甲賀衆は織田方に従っており、今回の伊賀攻めも織田につく可能性が高い。
・伊賀衆との軍事連携関係は数年前に事実上解消されており、全体の関係性は希薄である。しかし、伊賀の三箇所には親戚が住んでいる。
・2年前の天正伊賀の乱にて伊賀衆側が勝利しており、今回も勝利する可能性がないとはいえない。

■行動1:情報収集
 全段落の前提条件を加味した状況で①伊賀方②織田方どちらについたらよいか、は現段階ではわからない。その為、忍びの者の本分としてまずは「どちらについたら我が家を守ることができるか」をしっかり情報収集して、正しい判断を下す必要がある。
 まず伊賀の戦力については、長年の関係性と地理的な近さからもおおよその把握はできる。土豪としてのゲリラ戦法は非常に得意であることは知っているがいずれも小城であり、今天下で一番勢いのある織田の大軍による攻撃に耐えられるような立派な城はせいぜい柏原城くらいであることは既知であるとする。とはいえ、先の信雄による伊賀攻めでは織田方が大敗を喫した。こうなってくると重要なのは「織田方の軍勢がどれくらいの規模となるか」ということである。これをいかに素早く把握するかが重要である。
 この情報については、既に織田との関係性もあり、佐治氏に確認を取りつつも、実際に配下の忍びを放って織田方の軍備情報を探らせる。具体的には織田信長の居所付近を探る者に1名、各武将の軍備情報を探る者に3名ほど、他の甲賀衆から情報を得る者を1名で、計5名ほどを放つ。もしくは既に放って各地に間者として入っていた者から情報を聞き出す。この時点ではわからないが、結果としては44,000もの兵を動かしているので相当大規模な徴兵活動を行っていたことであろうから、佐治氏も味方として誘っている望月氏に教えない理由はないし、仮に佐治氏が知らなかったとしても情報を自らの力で収集するのは本職であるためそう難しくはないはずである。なお【伊乱記】によれば、敵対する伊賀衆ですら9月7日には伊賀が放っていた間者から事前に織田の軍勢の多寡を知ることができており、ましてやこの時点で信長側に近かった望月氏が知れないわけがないと考えられる。
 伊賀がいかにゲリラ戦法を得意としていたとしても、織田の兵力が4万〜5万という情報さえ知ることができれば、それまで考えることはなく、望月の家を残すには②の織田に付くのが上等と判断することができよう。佐治氏から援軍要請を受けた時点またはその直後にはこの判断を下すことができるので、すぐにでも佐治氏に「100人の兵を集めて参陣仕る」と返答する。しかし、上述した諜報活動とこの後に記載する行動は、佐治氏には伝えずに秘密裏に以下の行動を行いたい。

■行動2:伊賀に住む親類の救出
 次に対応しなければいけない課題が、伊賀に住んでいる親戚をいかに戦禍に巻き込まれないようにするかである。完全に兵力の差を認識した以上、みすみす親戚を見殺しにするわけにはいかない。しかし、総攻撃はいつになるのか。大軍ゆえにすぐとはいかないであろうが、攻撃までの間に、親類を甲賀へ迎え入れるか、他の国へ一旦は逃げるように諭さねばならない。
【伊乱記】によると、伊賀の福地氏と耳須氏が裏切って「伊賀を案内する」旨を伝えたのは7月10日。設問では7月某日とあるが情報伝播のタイムラグを考えると、佐治氏が村嶋城に伝言を持ってきたのは7月中旬であろう。
【伊乱記】によれば、実はこのとき織田信長は急な病に倒れており、8月3日に伊賀に向けて出馬するも、半日経つと汗が吹き出し、身体が眩んで安土城に引き返す始末だった。ここで効いて来るのが先程信長の居所付近に放った忍びである。信長の体調が悪く、しばらくは出陣が叶わないことを逐一村嶋城に報告してもらう。その間に配下の忍びの者達に軍勢の差と、伊賀の里が火の海になることを伝えることで、親戚に危機的立場にあることを理解してもらい、一旦は逃げるか村嶋城へと移動してもらう説得をする。そして、その交渉と移動時間にどれほどの時間が割けるのか、タイムリミットを常に情報を間者から聞いて事に当たることができる。

■行動3:100人の兵を集める
 返答にあたっては、実際に100人集められるかについてもきちんと保証できないとならない。信長のことだから、後で何を言われるかわかったものではない。しかし、当時の望月一族の勢力がわからぬためなかなか導き出しづらい。
【日本歴史地名大系】によると、江戸時代の寛政期にはなってしまうが、柑子村は高六二八石余となっている。石高帳の検地はその多くが秀吉の太閤検地で行われてからは、江戸時代になってもそう大きくは変わらなかったとされるので、戦国期にもほぼ変わらなかったとすると、約1石が1人を1年で養える量なので、柑子村には600人余の人口がを食わせていけるだけの規模はあった村であったと想定できる。実際には田畑がその面積の多くを占めていたり、兵力にはカウントできない女子供や老人がいたとしても、少なく見積もったとしても100人の兵は柑子村のみで賄えたのではないだろうか。これに加えて、設問にあるように甲賀郡の数カ所に望月一族の拠点があり、甲賀郡内の各地域の兵数と、行動2によって伊賀に住む一族が兵としても参陣してくれるのであれば、仮に行動1において情報収集に配下の者を斥候や間者として使っていたとしても、それとは別に100名の兵を捻出することはさほど難しくなかったと想定できる。しっかりと兵が出せるか否かの確認を怠らないことも肝要である。

■まとめ
 佐治氏への回答およびその理由ならびにその後の準備および対策としては以上のとおりである。以下に要約して回答を終えたい。
・織田、伊賀どちらにつくかの判断の為、佐治氏への確認で織田側の兵力を把握する。
・同時にその後の情報をダイレクトにスピーディーに把握できるように、信長拠点付近、他武将、他甲賀集の状況について情報収集にあたらせる。または間者から情報を聞く。
・上記を把握して確実に生き残れるであろう織田軍に付く旨を回答しておく。
・出陣日の情報を常に気にしながら、戦になる前までに伊賀に住む一族の親戚が逃げるか甲賀へ来るように説得し、準備をさせる。
・柑子村の男子をメインの兵力として、甲賀郡内の一族または伊賀から逃げた一族から集めて寡兵する。

以上

これでA4用紙5枚分、図書館で伊賀市史なんかを参考にしながら解答いたしました。

返信用封筒に入れてポストに投函!

果たして合格しているのかどうか…結果を待ちます。

講評までしてくれる採点と嬉しい副賞!

※名前は中級合格時にいただいた巻物で隠してあります。

数日後、なぜか「クール便」のお届け物があり、誰からだろうと思って中を開けてみたら、そこには合格証が!

なんとこれ「信楽焼」でできているというすごい代物であります…!

そして副賞にはたくさんの炭水化物たちが!!

クール便だった理由がわかりましたが、これは嬉しいお届け物ですね!
と思って賞味期限を見てみたら・・・

ぶっ!賞味期限あと3日とか5日とかのばっかりやん…!一人暮らしにはツライw

忍びたる者、眼の前のモノは瞬殺で始末せねばならぬということなのでしょう…おいしくいただきました!(もうしばらくモチはいいやw)

そして嬉しいことに試験やレポートに対する採点と講評が載っておりました。

<一次試験結果> 69点
軍法侍用集からの出題で、解答例のない中での高得点でした。忍者の代表的な流派、甲賀流と伊賀流を認識してもらう意図での出題でした。

<二次試験 得点と講評> 84点
織田信長が伊賀を攻め「天正伊賀の乱」の際に甲賀武士に課せられた役割に対して、甲賀武士望月一族の長としてどう対応すべきかを問うている。甲賀郡中惣の一員として、また立場をより強固にするにはどうすべきかを問うている。
こうした判断基準に基づき、貴方の二次試験の講評は概ね下記のとおりです。
・政治社会情勢判断
【◎】伊賀武士の動向 織田信長の評価
【○】甲賀武士の動向
・望月氏の立ち位置
【◎】情報収集 伊賀との対戦
【○】一族団結の必要性
・方針決定のプロセス
【◎】同名中惣の動員 兵員の確保
【○】兵馬の食料確保
・伊賀の親戚対策
【◎】織田に対する秘密
【○】隠密行動 伊賀との戦い方
<総合得点>76.5点/100点

講評における採点の観点を見るに、自分の解答は織田や伊賀については結構いい線書いていたけど、甲賀忍者側の考察が少し足りなかったようですね。

甲賀市史など結構資料は調べたのですが、ほかの甲賀忍者達がどう動いたかわからなかったし、仲違いしている兄弟なんてほっとけ!って思っちゃったのがよくなかったようです…

甲賀忍者についてもっと勉強せねば…!

兄弟仲違いの件は巡検で渡辺さんのお話を聞いていないと知ることもできないので、巡検も大事であるということがわかります。

受かるのに必要なのは日頃の忍者探求心かも・・・

ということで甲賀流忍者検定の上級の模様をかなり赤裸々にお届けして参りました。

正直、筆記試験については忍者検定の読み本だけでは全く太刀打ちできないと思います…。

忍者全般(特に甲賀・伊賀)について幅広く文献を読むなど、日頃の忍者探究心がモノを言うだろうな、と思いました。

そしてレポートに関しては、本当に自分がそのときの忍者になりきった気分で解答を考えることがポイントです。

敵・味方・家族・親族・兵糧・人員などあらゆる可能性を想定し、それに対する実現性とリスクを想定してしてしまくることこそが、リアリティにある解答につながっていくことでしょう。

甲賀流忍者検定の上級試験は最上級の忍者知識を試される試験だ、と思いました。

既に過去に拙者なんかより早く合格している諸先輩方も複数名いらっしゃいますが、相当な忍者好きじゃないと合格できていないだと思います。

でもこれは忍者としての知識を試すのにチャレンジするだけの価値がある、とっても楽しい試験。

中級受かった方は、ぜひとも来年チャレンジしてみてくださいね!

晴れてこれで甲賀の上級忍者となりましたので、今後Ninjackでも試験に出るか出ないかはわからない解説記事などを充実させていただきたいと思います。

いつかNinjackさえ読めば忍者検定受かるくらいの予備校のようになりたいですね!

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  11. 上田真田まつり参加準備レポ(2)〜日報の時代祭参加指南〜

  12. 忍者の海外遠征に紛れ込んで「台湾におけるNINJA受容」を肌感で調べてきた

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